Lightworks - Raymond Scott レイモンド・スコット(J Dilla "Lightworks" from『donuts』の元ネタ)

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 Dillaの『donuts』に入っている”lightworks”の元ネタになった曲である。

Lightworks - Raymond Scott

 このレイモンド・スコットという人を知っているだろうか? 私も恥ずかしながら『donuts』を聞いて以降、そこから派生していって初めて知ったのだが、正直この曲の音をゆがませたり、ブクブク言っているノイズはdillaが作ったものだと思っていた。

 しかし元ネタを聴いてみてわかるように、この辺のノイズはほとんどレイモンド・スコット本人が作っていたものなのである。Dillaはこれを再構築して、ビートを付けただけとも言ってもいい。実際にはこの音源を見つけてきておこなったこの作業こそがdillaの見事な功績であるのだが…。

 なんといってもこの元曲は1950年代から60年代はじめに作られたとされているものだから。ようやくロックンロールという音楽が受け入れられた頃で、ビートルズも生まれているかいないかの時代である。そんな時代の音楽だから、グルーヴ感に乏しいのは当たり前なのだが、こんなノイズを作っていた前衛的ミュージシャンが、このような昔にいたのである。これはほんとに驚きだった。

 レイモンド・スコットという人は1908年に生まれたアメリカ人で、1930年代後半に「レイモンド・スコット・クインテット」というジャズバンドを結成し、さらにはワーナー・ブラザーズカートゥーン音楽の作曲やラッキー・ストライクのジングルなどCMの作曲家として有名になった人物である。

 彼のすごいところは幼少の頃から好きだった機械いじりの趣味を生かす形で、稼いだ金、当時の10万ドル以上をかけ、数々の電子楽器を自ら製作したことである。テルミンと同じ機能を鍵盤楽器で作れるようにした『クラヴィヴォックス(clavivox)』や、鍵盤を介さずにランダムな音程、リズム、音色のシークエンスで作曲をする自動作曲装置『エレクトロニウム(electronium)』など、今のシンセサイザーシーケンサーリズムマシンに通じる数々の楽器を発明した電子楽器の父というべき存在なのである。パソコンという物も言葉すらなかった時代、中にはとてつもなく巨大なものもあったという。

 彼はその自ら発明した電子楽器を使ってヘンテコな曲やノイズを作り続けた。その一部は、『赤ちゃんを寝かしつけるのための音楽 Soothing sounds for baby』と題されたCDなどで聴くことができる。1~6ヶ月児用、6ヶ月~1歳児用、12~18ヶ月児用と3枚に分かれているのだが、なぜそのように分けたのか、どうちがうのか、そのくくりが全くわからない。でも、いわゆるインパクトだけの前衛音楽とちがい、CM音楽を手がけた人だけに、ちゃんと通して聴けるものになっている。

 それほどの彼がなぜ世界的に有名な存在にならなかったかというと、彼は自分の発明を積極的に公開しようとしなかったらしく、巨大で複雑な発明も量産には向いていなかったこと、さらに彼は新しいアイディアを思いつくとすぐにそちらの方に走ってしまうという性格だったらしい。その作業を耳にして、モータウン・レコードが彼を作曲家として招いたのだが、作品に採用されるまでには至らなかったらしい。彼の代表的な発明『エレクトロニウム』も結局完璧に仕上がることもなかったということだ。

 しかし彼の功績は、親交があったムーグ・シンセサイザーの発明者、ロバート・ムーグなどに多大な影響を与えたことが紹介されて、後の時代に彼の偉大さが認識されるようになり、彼の音楽はポップ・ミュージック(Devo、Soul Coughing、They Might Be Giants、etc)の人達にも取り上げられ、近年にはgorillazmadlibにもサンプリングされるなど、再評価が高まっている(昨年は生誕100年のボックスセットも発売された)。
 
 長くなったが、何が言いたかったかというと、そんな中dillaが彼を取り上げたということは非常に興味深いのではないかということだ。しかも原曲をほとんど崩すことなく、グルーヴ感を付けて見事に再生したこの曲を見ると、dillaは自分をレイモンド・スコットと重ねているところがあったのではないかと思えてくる。それは音楽的志向というよりも、自分のやりたいことを、決して評価されなくても、やりたいようにやっていたその人間性という意味で共通するものを感じたのかもしれない。『donuts』に随所に出てくるレイモンド・スコットっぽい音を考えてもそれっぽく思える。自らの最後の作品となるかもしれないもの(dillaが当時そのことをどこまで認識していたかはわからないが)に、レイモンド・スコットという人物を取り上げる意味、そこには自らの集大成としての決意みたいなものを感じることができないだろうか。