2020/01/09 David Byrne's American Utopia @ Hudson Theatre, NYC

明けて1月9日、木曜日。翌日は帰国日なので、実際に旅を楽しめるのはこの日がラストということになる。最後の日の夜に入れていたイベントは、ブロードウェイに行くことである。ブロードウェイといっても、本場のミュージカルを見るわけではない。
 
チケットを取っていたのは、デヴィッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』である。あの伝説のバンド、トーキング・ヘッズのフロントマン、デヴィッド・バーンがブロードウェイのハドソン劇場をなんと16週間も押さえて(実質4カ月)、ほぼ毎日、公演を行っているというものである。これはライブなのか、ミュージカルなのか、よくわからないという評判があって、そもそも私はミュージカルを楽しめない人間で普段ならブロードウェイの劇場など行かないのだが、こんな機会はないだろうと意を決して見ることにした。以前、ニューヨークに来た時、クラシックのコンサートではなかったが、カーネギー・ホールに行ったような感覚である。

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この頃から始まったライブの新しい形式として、アーティストは大規模なワールドツアーを行わず、1か所の劇場を長期で押さえて、そこで連日の公演を行うのが、流行りつつあったように思う。きっかけはマドンナのマダムXツアーで、ロサンゼルスの同じ劇場で10公演以上行うものだった。ロサンゼルス以外もある程度の主要都市でも行ったが、同じように劇場を何日も押さえて、公演をするという形だった。
 
1日や2日ですぐさま別の都市に移動する形だと、お金と移動の手間がかかる。同じ劇場で行うと、美術費や交通費の節約になるし、スタッフにも都合がいい。スタジアムクラスで一度に何万人のファンを集めることはできないが、1つの決まった劇場で公演をやるならば、アーティストの体力がきついのは事実だが、より自身のコンセプトを体現できるものが作れるし、観客もわざわざここに来てでも見たいというコアなファンを集めることができる。これはこれで理にかなったシステムかもしれないと思ったものだ。当時はまだコロナはなかったので、そんなことは考えもしなかったが、むしろコロナ禍以降のライブとして、これは有名アーティストには適したシステムかもしれない。
 
マドンナのようなスタジアムツアーを行うアーティストだけでなく、インディロックバンドのヨ・ラ・テンゴもニューヨークのボワリー・ボールルームを約10日ほど押さえて連日の公演を行っていたから、このシステムは主流になっていくんだと思っていた。そんな中で、デヴィッド・バーンがブロードウェイの劇場で4か月もの公演を行うというのも、そんな流れに属するものだと思っていた。もっとも彼の場合は、ブロードウェイのような公演がしたくて、あえてやったことなのだろうとは思ったが。
 
トーキング・ヘッズというバンドが注目されだした80年代初期は、私はまだ小さかったのでよく知らない。ちょうど洋楽を聴き始めたのが、アルバム『リトル・クリーチャーズ』や『トゥルー・ストーリーズ』の頃で、すぐにファンになって、昔のアルバムも聴き始めた。特に興味を持ったのは、彼らがアフリカ音楽やファンクミュージックに影響されていたことで、ただのニュー・ウェイブではない、独特のリズムや言葉の言い回し、デヴィッド・バーンの狂気のようなボーカルスタイルにひかれた。それこそ『リトル・クリーチャーズ』や『リメイン・イン・ライト』は今でも聴くアルバムである。
 
一方で、デヴィッド・バーンの個性の強すぎるボーカルは、私には特に沈んだ時にはうざく、やりすぎ感を抱くこともあり、表裏一体であった。彼のトーキング・ヘッズを解散した後のワールドミュージックに傾倒したソロ活動は、あまりフォローしていなかった。むしろ、メンバーのティナ・ウェイマスとクリス・フランツによるトム・トム・クラブの方が好きだったことを覚えている。
 
それはそれとして、トーキング・ヘッズやデヴィッド・バーンを聴く層には、ただのおしゃれやファッションで聴いている、バカなのにインテリぶった奴らが大勢いて、そいつらとは本当に合い入れなかったのをおぼえている。そいつらはブラック・ミュージックなんて聴きやしない、パンクテクノ一派だった。その話はここではもうしないが。
 
そのデヴィッド・バーンのハドソン劇場で行われる『アメリカン・ユートピア』。ポスターなどでは、ユートピアの書体が逆さまになっていて、これは彼なりの逆説のユートピアという意味らしい。タイトルは、彼の2018年に発表したソロアルバムが元になっているのだが、この公演のために結成された11人の凄腕ミュージシャンとともにダンスや音響、照明など凝った演出で楽しませてくれる公演ということだ。想像されるのは、1984年の映画にもなった『ストップ・メイキング・センス』との違いであるが、あえてここは予備知識を入れずに、見に行くことにした。

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もちろん公演自体は夜なので、それまではニューヨークを満喫する。午前中は、NBAストアやNHLストアに出かけ、昼には、今回もスケジュールの都合でゲームを見ることのできなかったブルックリン・ネッツのホーム、バークレイズ・センターへ。ネッツのショップに行くと、当時はまだケヴィン・デュラントが復帰していなかったが、ジャージなどはほぼデュラントのものが揃っており、まだ試合に出られない選手が一押しのアイテムになっているという悲しさ。まさか当時はネッツが、現在のようなスター選手を集めた軍団になるとは予想もしなかった。

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途中で、日本食スーパーのサンライズマートに立ち寄る。もう日本で手に入る商品は、何でも手に入るだろうというお店だ。おにぎりや弁当なども手作りのものが売られていて、何も日本と変わらない。せっかくなので、カツ丼を買って帰る。たまたまニューヨークに来た日本人や単身赴任者にとっては絶好の味方だが、真剣にニューヨークに勉強にしに来た日本人にとっては、こんなところに来てしまうと、生活がたるんで堕落してしまう店だろうなと思った。
 
午後、これまで車でニューヨークを走っていた時には行けなかった、ストリートバスケの聖地、ラッカーパークへ行ってみた。初めて来て見ると、こんなところなの?という印象。さすがに平日の昼下がりにプレイしている人間はいず。近くに駐車場はなさそうだったので、地下鉄で来るのが賢明だとわかった。今度はゲームが行われている時に来ようと思った。

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夜食とケーキなどを買って、ホテルに戻り、夜になってハドソン劇場へ向かう。ホテルからは歩いていける近さ。ハドソン劇場は1903年に建造された古い建物である。ブロードウェイの劇場とは言ったが、そもそもミュージカルの有名作品が数々上演された劇場ではなく、テレビスタジオとして有名だったところのようだ。アメリカの普通のライブとは違って、時間通りに始まるはずなので、行く方としては楽である。

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格式の高い劇場とした感じは予想通りで、客はお金持ちそうな白人の男女ばかりである。昔、ロックやってました的なやんちゃそうな人も見当たらない。この日のチケットはハドソン劇場のオフィシャルサイトで買った。チケット交換サイト、StubHubなどでも売っていたのだが、値段は変わらなかったのでやめた。オフィシャルサイトで購入すると、チケットの仕様も独特なので、プリントするのがちょっと面倒くさかった。買ったのは1階席の後方、右側のブロックで、値段が安くなった変わり目の最前を選んだ。約150ドル、ライブと考えると高いが、劇場が劇場だし、そんなもんなんだと納得。これはカーネギーホールの時もそう思ったのだが、2階のメザニン席の方が料金が高かったりした。オーケストラピットを作るクラシックのコンサートなら、そこの方が音もいいのだろうが、今回はそんなコンサートではないし、見やすさなら1階席だろうと。椅子は布張りの木製の良さげなもので、パンフレットが置かれていた。舞台にかかっている幕のデザインが、おしゃれだなと思ったが、これはこの公演のために作ったものではないらしい。

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ほぼ時間通りに幕が開いて始まった。舞台は、シャンデリアカーテンと呼ばれるものが下がった、ただの箱のような空間で、余計な装飾やセットは一切ない。ずいぶん簡素なものだな~という印象。これが音楽とダンスと照明でどこまで変わるのかと、懐疑的になる。デヴィッド・バーン含むミュージシャン12人は、全員同じグレーの上下スーツだが、足は裸足である。意味ありげではあるが、何も説明されないからわからない。後から考えても、裸足に何の意味があったのだろうという思いしかない。ここは現実世界ではないという表現なのか。だとしたら、あまりにもちゃっちいくないか。演奏は全て生であるが、音はワイヤレスで飛ばしていてケーブルを介さないので、ミュージシャン達は、舞台を自由に動き回ることができる仕様だ。

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当初はライブなのかミュージカルなのか、よくわからないものを想像していたが、結論から言うと、普通のライブだった、時々ダンスショーというくらいのものである。私としては『アメリカン・ユートピアというテーマに即した寸劇やスキット的なものが挟まれる形で、音楽が進行していくのかと思っていたが、時折、デヴィッド・バーンの詩の朗読だったり、客席に語りかけるような部分はあったものの(選挙についての話とか)、ほぼ音楽演奏のみがシチュエーションを変えて、時にはダンス的な振付を交えて繰り広げられるだけであった。いわゆるストーリー性のあるものは皆無だ。デヴィッド・バーンの訴えかけたいメッセージは、楽曲の選曲と歌詞で判断しろということなのだろうか? むしろ、そのようなメッセージみたいなものがあるのかということすら疑問になってきた。それもそうだ。集まっているのはミュージシャンばかりで、彼らは役者ではない、彼らが演出家・振付師の意図通りに動いていることがすごいのであろう。

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幕が開いてすぐの①曲目”Here”(アルバム『アメリカン・ユートピア』の曲)は、いきなり客席の方を見て、机に座っているデヴィッド・バーンから始まった。机の上に何が置いているのか、最初はわからなかったが、デヴィッド・バーンが持ち上げて歌っているのを見ると、脳の模型であった。何だよ、それ。確かに歌詞は、脳の話をしていたようだけど、これってそんな歌だったっけ?という思いと、一体、何を見せられているのかという思いが交錯した。そして、コーラスのミュージシャンが現れて、脳の模型と机を引き取って、カーテンの奥からミュージシャンが続々と登場し、2曲目からは普通のライブになるという感じ。とはいえバンドには7人のパーカッショニストがいたので、アフロビートの曲を彼らの演奏で体感するのは最高ではあった。

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③曲目の”Don't Worry About The Government”(トーキング・ヘッズの曲)は、5人のミュージシャンが正方形のスポットライトに照らされた場所に立っている。曲の節目でミュージシャンたちが規則正しく移動し、スポットライトも同じように変わる。それで四角のボタンが移動しているように見える。コーラスの人間は、時折ダンスをし始めるという演出。これはこれで統制のとれた素晴らしいパフォーマンスではあるが、なぜこの曲でこれなのか、ガバメントに統制されたというイメージなのか、特に説明はないので、こちらは良く受け取って、そう想像するしかないものでしかない。

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⑭曲目の”I Dance Like This”(アルバム『アメリカン・ユートピア』の曲)は、暗闇の中で曲が始まり、照明が点滅して明転すると、曲を弾いているキーボードのミュージシャン以外は、全員床に横たわっている。これは皆、死んでいるというイメージなのか? キーボーディストが、荒廃した世界を彷徨っているイメージなのかと思っていたら、同じく横たわっていたデヴィッド・バーンが起き出して歌い始める。すると他のミュージシャンもそれぞれ起き出して演奏を始めていくという演出。曲のサビでデヴィッド・バーンがぎこちない奇妙なダンスをすると、それに呼応して動くミュージシャンがいる。客席からチラホラと笑いが漏れる。
注目を呼び起こす演出ではあるが、これに何の意味があるのか、正直わからない。この曲は、人が死ぬことを歌っているわけではないし、荒廃した世界を歌っているわけでもない。歌詞には、別の次元という言葉が出てくるので、それらしきものを見せたかったということなのだろうが、ここに至る導入の説明があるわけではないのでわからない。途中、曲が止まっても、全員がロボットのように踊り続けるので、客席から笑いが上がるが、その後は、照明が点滅することで、ストップモーションで動いているかのように見せる演出になった。これって『ストップ・メイキング・センスでもあったよなと思いながら、最後はデヴィッド・バーンにだけスポットが当たり、1人になってしまう展開である。
 
ただ、いわゆる芝居的な演出というのは、ほんとにこれくらいであって、あとはミュージシャン達が踊りながら移動していくとか、固まって同じ動きをするとか、それくらいのものである。曲によっては、ダンスの演出もなく、ミュージシャンはただ体を動かしているだけの感じにしか見えない曲もあった。
 
今回、私が観た回は、リピーターはほとんどおらず、初めての人間ばかりだったようだ。⑬曲目の”Born Under Punches (The Heat Goes On)”(トーキング・ヘッズの曲)で、バンドメンバーの紹介が始まり、ようやくほとんどの観客が席から立ちはじめてノリ始めたように思う。そして、スマホで写真も撮り始めた。劇場がおごそかだから、どこまでノッて楽しんでいいのかなって感じがあったようなのは確かだった。

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今回の楽曲であるが、アルバム『アメリカン・ユートピアの曲からというより、約半分、全21曲中9曲がトーキング・ヘッズの曲であった。歌詞は、特別に変えているわけでもないし、オリジナルと同じだったはず。やはり、というか当たり前であるが、トーキング・ヘッズの曲を演ると、客席は盛り上がる。私なんかは、一部ならともかくそんなにがっつりトーキング・ヘッズのヒット曲を網羅するのね、とちょっと冷めた感じにもなった。結局、客が盛り上がるのもわかっててデヴィッド・バーンは選曲しているのなら、『ストップ・メイキング・センスと何が違うのかということになってくる。35年前とやってることは変わらないよ。それも芸術だと言えばそうかもしれないけど、私のようにどうやって楽しめばいいかわからなくなった人間もいる。だったらジェリー・ハリソン、クリス・フランツ、ティナ・ウェイマスらメンバーと一緒に演っている姿の方が見たいし(デヴィッド・バーンは彼らと永遠にいがみあい続けるつもりなのだろうか?)、凄腕のミュージシャンではあるが、デヴィッド・バーンからすればひよっ子の何でも言うことを聞いてくれるミュージシャンたちと演るより、バーニー・ウォーレル(すでに故人となってだいぶ経つね)やアレックス・ウエア―、スティーヴ・スケールズたちとの、一筋縄ではいかないミュージシャンたちとの演奏の方が緊張感があったし、あの頃の方が良かったとも言える。

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これを機に、1984年の映画『ストップ・メイキング・センスを見直してみた。これはあくまで映像作品であり、ライブと比較するべきではないと思うが、この時は客席にセットも作っていたり、ミュージシャンのバックスクリーンに文字が出るとかの演出もあったよなと。確かにこの時も芝居的なくだりなどはなかったけどね。最初、カセットテープの音だけで歌を合わせて、その後、ベースやドラムが入り、バンド演奏になっていくという演出も、この時は新しかったかもしれないが、今では特別珍しいものでもなくなってしまったし、今の若い人はこの作品をどう見たらいいんだろうと思ってしまうのではないかと感じた。あらためて知って驚いたのは、ジョナサン・デミは。別アングルのカットは、別の回の公演で撮っていたことだ。だから映像でカメラが一切見切れなかったのねと。何回、同じ公演を撮っていたんだと。
 
からしても、この時聞いた『ワンス・イン・ア・ライフタイム』も、今回の公演で聴いた『ワンス・イン・ア・ライフタイム』も、正直、特別何も変わるものではないんだよなと思った。35年以上の時をそれぞれに感じろということなのか。だとしたら、何なんだ? 『ストップ・メイキング・センス』では、デヴィッド・バーンはあえてバカでかいスーツを着て歌っていて、それを脱いだりしたのが印象に残っていて、この時もこれが何の意味を持つのかわからなかったけど(それこそストップ・メイキング・センスということなのだろうか)、これは演出としては最高のものだったと思ったのだ。だとしたら、今回の『アメリカン・ユートピア』は一体何なんだと疑問ばかりが残る。

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 今回のライブで、結局盛り上がるのはトーキング・ヘッズの曲ばかりということがわかったのだが、後からセットリストを見てみると、デヴィッド・バーンのソロ時代のそれぞれのアルバムからも最低1曲はピックアップされていて演奏されていたので(それこそファット・ボーイ・スリムと組んだ曲、セント・ヴィンセントやブライアン・イーノとの共作アルバムまで)、彼のキャリアを総括できるものにもなっていたようだ。
 
しかし、全く違う毛色の曲が1つあった。 このライブで一番盛り上がった”バーニング・ダウン・ザ・ハウス”(トーキング・ヘッズの曲)のすぐ後に、短い曲紹介とともに演奏された曲、⑱曲目の”Hell You Talmbout”である。これは、デヴィッド・バーンの曲ではない。他の演奏された曲は、すべて彼が作曲者として関わった曲であったが、この曲は全く違う。今やブラック・ミュージックで、ビヨンセ以降、最も影響力のあるアーテイストであり(最近は女優の方で有名になってしまったが)、私も大ファンであるジャネール・モネイの曲で、単なるカバーなのであった。

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この曲はジャネール・モネイの2013年のセカンドアルバム『ジ・エレクトリック・レディー』の限定版に入っていた曲だが、曲のタイトル ”Hell You Talmbout” は”What the hell are you talking about?” という意味ということもあり、彼女はこの曲を、白人警官による不当な取り調べや暴力などによって殺害された黒人の被害者たちの名前を叫ぶ、ゴスペル調のプロテストソングにアレンジにして、2015年に再リリースし、ライブや事件が起こった土地で歌い始める活動を行うと盛り上がっていき、いわゆる後のブラック・ライブズ・マター運動のテーマみたいになった曲である。

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まさかこんな曲を、デヴィッド・バーンがこのライブで演るということ自体に驚いたのである。おまけにこれまでギターやベースを演奏していたミュージシャンたちも全員打楽器に変えさせて、迫力のあるパフォーマンスにしてみせた。今回のミュージシャンたちは全員アフリカ系ではないし、多国籍であるから、この曲の背景をどれだけ肌で感じている人間がいるのかわからないが、だからこそ意味があるのかもしれないと思った。
 
この曲がいいなと思ったとしても、いわゆる白人のミュージシャンで、実際にライブで演奏するまでに至る人間がどのくらいいるだろうか? 自身の音楽性との乖離という問題もあるだろうし、私はすぐには思いつかない(U2のボノならできるか、レッチリのフリーならできるかとか考えてみたらいい)。これこそワールドミュージックを追求してきたデヴィッド・バーンだからこそできる芸当であり、彼のフットワークの軽さである。これまで何やかんやと述べてはきたが、だからこそ私は彼を憎めないのであり、支持し続ける理由でもある。
 
しかも、このライブは2020年1月であり、アメリカでは白人警官による黒人への暴力は何度も話題になっていた出来事であるだろうが、ジョージ・フロイド氏が殺害されたのは2020年の5月であり、いわゆるブラック・ライブズ・マター運動が世界的に盛り上がるのは、まだ少し先の話であるということだ。だから、ブラック・ライブズ・マターにしても、やはりデヴィッド・バーンみたいな白人の理解者が、ファンである白人層、中間層に訴えかけることにこそ、大きな意味があるんだろうなと思ってしまった次第である。
 
この『アメリカン・ユートピア』だが、その後、あることで大きな話題になった。スパイク・リーがこの舞台を映像化することになったというニュースである。もう『アメリカン・ユートピア』で検索しても、この映画化されるニュースしか出てこないほどだ。このことで、さらにジョナサン・デミが『ストップ・メイキング・センス』を映像化したのと、大きく比較されることになったのであるが、考えてもらいたい。スパイク・リーが映像化を引き受けたのは、デヴィッド・バーンの友人ということもあるだろうが、ライブで”Hell You Talmbout”の曲をやっていたからであろう。多分、トーキング・ヘッズの曲をやっているだけのライブでは受けなかったと思うし、そういう意味でスパイク・リー色の強い、ジョナサン・デミとは全く違う映像にはなるだろう。

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とかく、この舞台(ライブ)は、多くの人間がなぜか手放しで絶賛しているコメントが多いのだが、そこは何をもって、その人間がそう言っているのか、しっかり見定めて判断しないと、ただ、この作品を見るだけなら、後悔することになるかもしれないよ。
 
ライブは最後、全員が出てきて、㉑曲目の”Road To Nowhere”で盛り上がって終わる。結局、最後もトーキング・ヘッズなのであった。この曲は『ストップ・メイキング・センス』の時代にはなかったけどね。私には、68歳になろうとするデヴィッド・バーンがこんなに動けるんだということ、彼は舞台に大人数を集めて、大声で歌うライブが何よりも好きなんだということだけは、よくわかった。

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これで、私の今回の旅は終わりになる。ニューヨークではレンタカーをやめて、乗り合いバスにしたので、翌朝は早朝の飛行機ではなかったのに、朝5時に出発する羽目になったけど。これが、まさかその後コロナのために、1年間もアメリカに行けないことになるなんて思いもしなかった。そして、1年間海外に行かなかったのに、お金が全然貯まっていないこと、むしろ前より生活が苦しくなっていることに絶望を感じているところである。