思いっきりコケた映画『ICHI』について(DVD)

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 このままでは多分観ることないだろうと思って忘れる前に借りてみた。

 世間では大コケした映画ということになっているこの映画だが、観てみて何となくその理由がわかったような気がした。アラ探し的なものや不自然な点は、各サイトのレビューで色々指摘されていることなので、そこは基本的に置いておいて、他のことを記しておく。

 この映画においては、ストーリー的にいわゆるいい意味での期待を裏切られるということが、全くなかった。どの展開も予想されるべきもの以上のものはない。考えてみると、そもそもこの映画でどのシーンのどこがよかったという印象に残る部分がないということに気付く。各サイトのレビューで多々指摘されるように、綾瀬はるかの美しさしか残らないわけだ。なぜ目の見えない主人公がそんなにきれいな見映えをしているのかという根本的な疑問は常に頭をもたげるのだが、そこは綾瀬はるかを美しく撮る映画という製作者の直接的意図があるところだと思うので、あえてそこは問わないことにするが。

 一番の疑問点は、なぜこの物語を綾瀬はるか演じる市の復讐の物語に特化してしまわなかったのかということだ。人を殺す物語で、最も感情移入しやすいのは、復讐だ。襲ってきた賊を殺すというくらいはわかる。大沢たかお演じる浪人に対する借りを返すぐらいまではわかる。しかしその後も特別な感情を抱かなかったはずの大沢たかおのピンチを救い、宿場町の危機を救ったりしだすと、一体何がしたいの?と思ってしまうわけだ。表向きは、自分を捨てた父親(育ての親?)を捜すために旅をしている(捜してその後どうしたいのかは全く見えてこないのだが)ということになっているが、そうなると襲ってきた賊を殺すということ以外は、他人を殺す意義はない。なのに市は、自分の父親を知っているという言葉だけで、悪役中村獅童率いる賊のアジトにもぐりこんで大立ち回りを演じる訳だ。正直そこまでしなければいけない理由がわからないし、全く感情移入できないところだ。

 別に中村獅童に自分の父親を殺されたということにしとけばよかったんじゃないの? それなのにあえてこの映画は、獅童に自分の父親と一戦交えたことがあると言わせながら、一番斬りたかった相手が父親だった、どこかで病死してしまったようだがとまで具体的に言わせるのである。そういう嘘をついたというわけでは決してない(そういう演出はなかった)。何でそんなことまでするんだろう? 父を殺した相手に復讐するということなら、市の行動はすべて理解できるし、そこに賊に荒らされてつぶされようとしている宿場町のエピソードが入ってきたところで、全く違和感は感じないだろうに。そもそも賭博場に出没していただけの賊が、宿場町をつぶすまでに至る展開もよくわからないのだが…。テカを殺されたのを報復するだけならわかるが、自分達が乗っ取るという訳でもないようだし、宿場町をつぶしたら自分達の稼ぎもなくなるわけだし。そもそも一番いいのは、最初から父を殺されたということにしといて、その犯人を捜している立場にしておくことだろう。そうすれば、市の旅する理由ももっと明確になったはずなのだが。

 そんなただでさえ入り込めない主人公市に対して、あと観客が感情移入できるところがあるとすれば、もうそれは市の生い立ちしかない。なのにこの映画はその生い立ちを説明するシーンを音楽バックのダイジェストで見せてしまうのだ。時間的にカットするべきシーンとして、ダイジェスト扱いにしてしまったのなら、もっともいけないことをやってしまったのだと思う。ただでさえ盲目といいながら整った顔立ちで肌もきれいな目立ちすぎる主人公市の違和感を払拭するには、そこしかないはずなのに。貧乏ゆえに瞽女(ごぜ=盲目の女芸人一座)として集団で働ける家に預けられ、そこの家の主人?に無理矢理犯されるのだが、自分が咎められて追い出される、何とか家に置いてくれと主人?に頼むが、再び乱暴されそうになり、そいつを殺してしまって逃げることになる。市という主人公がまだわからないうちにちゃんと時間をかけて描けば有効なエピソードとなるものを、この映画はダイジェストで、しかもだいぶ後半になってから申し訳ない程度に出すだけなのだ。結局身分が低く貧乏であり障害者でもあるという市のみすぼらしさが強調されることはなく、盲目ではあるけれど、どこかお嬢様みたいに見えてしまう主人公になってしまっている。

 だったら綾瀬はるかは別にお嬢様でもよかったはずなんだが。権力闘争に破れて、没落した家の娘であってもいいはずだし、人為的に失明させられたエピソードなんかがあるとなおいい。市が整った顔立ちやきれいな肌であっても十分説明がつく。高貴な家に生まれたものの、目が見えないことがわかって、捨て子にさせられた娘であってもいいだろう。そうすれば復讐の構造だって簡単に作れるわけだし。とにかく気付くところがことごとく中途半端で、それを改善しようともしていないところが目に付くのである。この脚本家はけっこう有名なドラマを描いている人なのに、この作品はやりたくなかったのだろうかとすら勘繰ってしまう。

 殺陣のシーンは毎回毎回といっていいほどスローモーションだ。CGを多用しなかったのは立派だと思うが、それをスローにしてしまうと、スローにするしか見れなかったのかとも思ってしまう。盲目である市の感覚を表現するためにスローを使ったという話もあるが、ならばどこかピンポイントにして強調すべきものではないのだろうか。

 驚くべきはクライマックスの決闘シーンだ。それまでさんざん市の殺陣を見せてきたのでもういいのかと思ったのかどうかはわからないが、市の戦闘シーンは、大沢たかおに斬られて瀕死の状態にあった、中村獅童にとどめをさして殺すだけである。それでいいのか? もう疑問だらけである。その前に重傷を負っていたというのもあるが、それはあえて最後に暴れさせるための演出であって、クライマックスには思いっきり戦って斬りまくるシーンを入れるだろう。

 その代わりに思いっきり見せられるのが、窪塚洋介が親の仇といって、中ボス竹内力を斬るシーン。そしてトラウマで刀を抜けない大沢たかお獅童と戦うシーン。大沢たかおは一歩譲ってまだ理解できるにしても、窪塚まで見せ場を作らなければなりませんか? 無念を抱きながら殺されてしまった方がいいでしょうに。監督にとっては『ピンポン』で出てもらって、「今回も出てよ」と口説いたんだろうと思うが、自分にも見せ場を作れという条件を飲まされたわけ? 映画を観ながら、芸能事務所の力関係を推察させられるってどうなのよ?

 そんなことを思うと、やりすぎだとすら思った『あずみ』の方がずっと健全で、活劇としても優れていたなと思った次第である。

 あと思ったのは、もうちょっと血の色はどす黒くないと。絵の具にしか見えんかったし。これこそCGで色付けるくらいした方が良かったんじゃないの? R指定を避けるために色々苦労したのかもしれないが、こういう映画はR指定の方が絶対注目されるし、その方がよかったのにね。綾瀬はるかだから無理とかいうんじゃなくてさ。